信長はなぜ茶器を愛したのか。

信成公がソチに出場しないのは寂しいで限りです。

そんな折、織田信長についての本を2冊読んでみました。

 

『織田信長のマネー戦争 経済戦争としての戦国時代』
『織田信長の経営塾』

 

両書に、信長が茶器に執着した理由についての記述が出てきます。

 

信長は優秀な人材を積極的に登用し、手柄を立てた家臣には恩賞を惜しみなく与える方針をとっていました。しかし、恩賞(土地)には限りがある。そこで、信長は茶器に目を付けたのだそうです。

 

茶器の価値を高め、土地の代わりに茶器を与える。そして、茶会を開く権利を特別な手柄を立てた家臣にのみ許すことによって、土地の付与以外の報酬システムを確率しました。

 

この茶器=報酬とするシステムは、豪商が支配する堺を服従させた際に、武器商人の今井宗久から茶器を献上されたことで思いついたそうです。

 

また、信長の父、信秀の代に織田家は知多半島を支配したのですが、ここは瀬戸焼と常滑焼の産地。伊勢神宮の荘園への物流ルートにのせることにより、国内の陶器のシェアを6割も占めていたそうで、この収入によって織田家は急成長したそうです。

 

器好きには大変興味深い話でした。

 

『織田信長のマネー戦争 経済戦争としての戦国時代』のメモ。

たとえば信長は「兵農分離」や「鉄砲の大量生産」で敵国を蹂躙してきたが、「兵農分離」にはも「鉄砲の大量使用」にも、多額の費用がかかるのだ。農閑期だけ動く農民兵より、一年中働ける常備兵の方が強いに決まっている。しかし常備兵を持つには、それを雇用するだけの経費がかかるのである。
また鉄砲という新兵器を大量に持っている方が、戦争に強いのは当然である。しかし鉄砲を大量に用意するには、まずなにより金がいるのである。他の武将にはそれができず、信長にはそれができたということは、信長はそれだけ経済力を持っていたということである。つまり信長は軍事力というより、経済力で敵を圧倒してきたのである。

 

竹中工務店という企業があるのを多くの方がご存知だろう。竹中工務店とは、もちろん現代日本のゼネコン最大手である。この竹中工務店、実は信長の家臣「竹中藤兵衛」が作ったものなのである。

 

信長がキリスト教の布教を認めたのは、「仏教と敵対していたから」「南蛮文化に興味があったから」などと言われることが多い。確かにそれもあるだろう。
しかし、最大の理由は、南蛮貿易における利権を手にしたかったからではないだろうか? というのも南蛮貿易とキリスト教布教というのは表裏一体のものだったからだ。
当時、ポルトガルやスペインは、キリスト教の布教を交易の条件としていた。

 

信長は中央政権として初めて、物を量る単位「枡」を統一させた。これは物の流通の面では画期的なことである。物の量が統一されていなければ、なかなか商取引ができるものではないからだ。単位の統一によって、全国的に物流が活発化したのである。

 

堺を治めるにあたって、信長はある商人を利用した。その商人とは、今井宗久である。
茶道の宗匠として名高い今井宗久は、堺の豪商でもあった。甲冑などの革製品を取り扱っていた宗久は、武器商人として戦国大名の間でも有名な商人だった。

 

京都の富商たちの多くが法華経を信仰しており、彼らは自治組織の中でも、世話人として名を連ねていた。京都で「旦那衆」というと商家の主人のことを意味するが、旦那というのはもともとは檀家のことを指す仏教用語なのである。つまり、法華経の支配する時代の京都で使われていた「旦那」という言葉が、今にも伝わっているのだ。

 

根来寺には、石垣積みの寺城館が造られていた。これは、戦国大名たちが石垣積みの城を建設する以前のことである。根来寺の境内には300にも及ぶ子院があり、それぞれに井戸などの施設が付随していた。門前にも150の子院があった。巨大なカメをならべた遺構が発掘されていることから、油屋、紺屋、酒屋などもあったと見られている。

 

『織田信長の経営塾』のメモ。

信長というと短気だと言われるかもしれないが、案外そうではない。それどころか実に辛抱強くて執念深いのである。美濃攻めに7年間、石山本願寺攻めに11年間もかけている。武田勝頼を破ったときも、深追いすることなく相手の内部崩壊に自滅を7年間も待った上で攻撃している。

 

戦国時代は、食事が一日二回だった。白米はすこぶる貴重品で、公家や大名でなければ食べられなかった。白米にかわって食べられていたのは“赤米”というもので、今で言う二等米・三等米だった。これが実は奈良朝から戦国期までを通しての米の主役で、白米が中・下級武士の食卓に上るようになったのは江戸時代に入ってからのことだという。
農民は、この赤米を食べることができなかった。農民は、雑穀や芋を主食としていて、それで雑炊を作って飢えをしのいでいた。雑炊といっても現代人が想像する豪華な雑炊とは違う。粟、稗、豆という雑穀と芋、山草などで水増しすることで具を省いた代物だ。それも一日二食である。

織田信長のマネー革命 経済戦争としての戦国時代 (ソフトバンク新書)

織田信長の経営塾 (幻冬舎文庫)