『ラッシュ』を観て、映像のカッコ良さに感心し、カリスマなきF1について考える。

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映画『ラッシュ』を観てきました。70年代後半のF1チャンピオンを争ったジェームス・ハントとニキ・ラウダの物語。

 

映像が本当に良かった。ノスタルジック調の映像で、当時のF1を取り巻く熱狂を表現しています。今のキリッとした感じの映像ではなく、くすみがあるというか色がボヤけた雰囲気の映像です。

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こんな感じです。

 

ジェームス・ハントとニキ・ラウダが活躍した時代を僕はリアルタイムで生きていないので、当時の雰囲気を忠実に再現している映画なのかはわかりません。ただ、モータリゼーションの時代、F1は今以上に夢が詰まったレースだったということは間違いないと思います。

 

死が隣り合わせだからこそエキサイトできる人もいる

 

『ラッシュ』の予告で言っていますが、当時は毎年25人のレーサーがF1のチャンピオンシップに出場し、最終戦までに2人くらいは死んでいたそうです。

 

そして、セナの死後、レーサーの命を守るための大きな規定改正が行なわれ、それがF1人気の凋落を招いたという話を聞いたことがあります。

 

この規定改正って誰のためになるのでしょうか?

 

生と死のギリギリのところで競っているレースと、命は確保された上で競っているレースだったら、それは前者の方がエキサイティングなはず。見ている側はもちろんとして、レーサーだってそうなんじゃないかと思うのです。

 

死の危険があるようなシチュエーションでしか、生きてる実感を強く得られなかったり、アドレナリンが出ないという、頭のネジが何本もぶっ飛んでる人っていつの時代もいるものだと思います。例えば冒険家。そしてF1レーサーもそういう類の人種だと思います。少なくとも昔は。25人中2人は死ぬレースに出るんですから。

 

死の危険があってもレースに出たい人がいるんだったら、そういうレースがこの世に存在していてもよいはず。冒険家に「危ないから冒険禁止!」という法律をつくって押し付けてもナンセンスなように、F1レーサーの命を守るための規定改正が行なわれたことに僕は違和感を覚えます

 

セナの死後、F1レーサーに死亡者が出ていないそうです。セナがいなくなってから、F1は人気を落としていきます。命をかけたレースでなければ、セナほど人々を惹き付けるカリスマは誕生しないのではないでしょうか。