小さな頃から時代劇とか見てるので、昔の日本人についてちゃんと理解してるつもりなってしまうが、民俗学を学ぶと全然そんなことないと痛感する。
以下、メモ。
土地改良以前はひざから腰ぐらいまでもぐる田が少なくなく、田下駄なしでは作業がおぼつかなかった。
「身体に施す」とは身体に装飾的に変化と変更をあたえ、そこには非日常的な文化的、社会的意味を生じさせる仕掛けである。「身体に施す」民俗は次のように分類できる。1つは化粧や彩色によって身体の表面に一時的に変化と変更を与えること、もう1つは身体の表面に傷をつけたり、身体の一部分を切断したり貫通することである。後者の場合、傷や切断、貫通は身体に永久に残る。具体的には入墨、死者を悲しみ身体に傷をつけること(哀悼傷身)、人柱の片目片足、耳環、抜歯や研歯、そして鉄ネ(お歯黒)などである。
化粧坂などの伝説が全国的に分布している背景には近世以前、全国を漂白していた巫女や遊女の存在があった。ムラに入る際、ムラザカイで化粧しヒトでない存在となり村人に迎えられた。化粧した巫女や遊女が、村内にカミとして迎え入れられた背景には、異界からムラザカイを越えて来訪する人神信仰があったのである。
入墨は3世紀末の『魏志倭人伝』に文身(ぶんしん)とあり、潜水漁民が海中で大魚などから身を守るために行っていた。8世紀ごろになると猪飼や鳥飼、そして海女などの職業者や非農業者の間で行われ、近世では刑罰の印となった。ヤクザの入墨は彼らが差別と禁止の対象であったからであり、自分たちは社会と相容れない存在であることの自己表示であった。
かつての食事は栄養摂取だけなく同じ火で煮炊きしたものを一同で食べることの精神的一体化が重要であった。食事の回数、時間、食事のしつけ、飯米の量とやりとり、供物の贈答などにみられる食習慣には「食べ物と霊」との関係が背後にある。
米櫃に米寿の人の手形を貼ったり、瀕死者の枕辺での振り米、食べ物を祖末にすると目が潰れるなどのさまざまな諺、外食のときは箸を使用後折るなどの作法まで多様である。食べ物の摂取と霊の盛衰が重なるので自己の食物摂取と、盆に先祖より先に餓鬼仏にまず供物を与えるなど、外部の霊との関係を意識しなければならない。
初生児が女子であった場合、弟がいても姉に婿を迎え、家督を継承する方式がかつて存在した。これは「姉家督相続」と呼ばれ、東北地方・北関東地方などの東北日本にその分布が見られた。この慣習は最初に生まれた子供を跡取りとする考え方に基づいている。これは、早期に労働力を確保し、イエの継続をはかってゆこうとする継承方式の1つである。しかし、明治期に民法において長男相続が規定されることにより、この慣習は消滅していった。
虫が知らせる、胸さわぎがするなどといって、ヒトの死をめぐってはいろいろと予兆めいたことがかつていわれた。なかでも烏鳴きが悪いとまもなくヒトが死ぬというのはなぜか全国的であった。臨終に際しては、魂呼ばいなどといって大声で名前を読んで生き返らせようとする呪法や、末期の水といって唇をぬらしてやる作法などが伝えられていた。
日本のムラの多くは神社を囲む鎮守(ちんじゅ)の森がランドマークとなっており、その鎮守の森に隣接してムラの集会施設や寺が位置している。さらに家々が連なって集落を構成し、その周辺に生産対象としての耕地・林野が広がる。また道端や辻には道祖神や地蔵などの石像や塚・小祠(しょうし)などが立ち並ぶ。
集落=定住地=ムラ
耕地=生産地=ノラ
林野=採取地=ヤマ
「ムラ」という言葉は「ムレ」(群れ)に起源を持つとされており、何が群がったものかといえばイエにほかならない。
集落の形態は極めて多様であるが、大きくは集村と散村に分けるのが一般的である。集村とは数十戸の家屋が局地的に1カ所に集中分布している集落をいい、一方の散村は家屋が相互に50〜100メートルの距離を隔てて分散的に配列している集落である。
海女もそうであるように、漁村の女性は農村の女性にくらべて経済的実力をもつといえ、このことが活力に満ちた海の女の性格形成に関与しているとみられる。同様に、体力を要求される漁業活動の性格上、若者の力も高く評価され、若者組が発達するなど、年齢階梯的社会構成をもたらす要因となっている。
和歌山県根来寺の調度をつくった根来塗りは、のちに寺の崩壊とともにその技法を全国的に伝えたとされる。
能登半島には、中世の山岳仏教として一大勢力を誇った真言宗の石動山天平寺があった。この山の越中側には大窪・長坂という1村がすべて宮大工・御用大工が住むムラがある。すなわち焼失した寺院の再建工事を機に起こった近世の職人村であった。
私たちの先祖は、霊魂と肉体は別のもので、肉体は滅びても霊魂は永遠であるという観念をもっていた。人間や動植物に生命力を与えるものが霊魂であり、それをタマ(魂)と呼んできた。
家をめぐる民間信仰に眼を向ければ、屋内神としての竃神・納戸神・厠神・水神など、家屋の要所において祀られ、その場に常在するカミの姿がまずあげられよう。
柳田国男によれば、日本の先祖神は、遠い彼方の世界ではなく、人々の暮らしを営む身近な世界に住むものと考えられ、その場所とは、里に接続する里山(端山)や森・墓所・海上などであった。先祖神は、常日頃、そこから子孫たちの暮らし振りをながめ、定期的にイエを訪れるものとされた。
山岳信仰は日本の社会において単に民俗宗教という領域にとどまらず、宗教全般にわたって重要な位置を占めている。
わが国の巡拝(じゅんぱい)の最たるものとしては西国、坂東などの三十三観音巡礼や、四国八十八カ所巡礼がある。四国・坂東・四国などの巡拝は、めぐる寺々の順序が決まっているのが特徴であるのに対して、六十六部のように、日本全国66カ国の代表的な聖地に法華経を奉納して巡拝するコースや、対象となる寺社が一定でないものもある。
神々や死者の言葉を伝え、病気治しなどを行う霊能者が各地に存在する。地域により、名称や性格は異なるが、北海道のアイヌのトゥス、東北地方のイタコやゴミソ・カミサマ・ワカ、伊豆諸島などのミコ、南西諸島のユタ・モノシリ・カンカカリャーなどが挙げられる。「巫女」という総称がしばしば用いられてきたように、わが国の霊的職能者には、女性が多いが、男性も少数ながら存在する。
柳田国男は『妖怪談義』のなかで、お化け(妖怪)と幽霊の違いについて3つの特徴を挙げて説明している。
(1)お化けは出現する場所がたいてい決まっていて、その場所を通らなければ出くわさずにすむ。しかし、幽霊はむこうからやってきて、逃げても追いかけてくると指摘している。
(2)お化けは相手を選ばないが、一方は相手を特定する。つまり、幽霊はこれぞと思う相手だけに思いを知らせようとする。
(3)幽霊は丑三つ時に現れるが、お化けはもっぱら宵と暁の薄明かりのころに出現する。
琉球王国で中央集権的な国家体制が整備され、国家儀礼を司る聞得大君(きこえおおぎみ)を頂点とする祭司組織がととのえられて、集落レベルではノロ、ネガミ(沖縄)、ツカサ(八重山)らの職能者が今日でも御嶽などに対する村落祭祀を行っているところもある。ヒトを代表してカミに祈る役回りである。男性は補助的な役目を負うが、儀礼の主体女性によって担われる。
一方、国家の祭祀組織がととのえられるにつれて制度から排除され弾圧された職能者があり、ユタ、ウムリングァ、ムヌスーなどと呼ばれている。迷信を広め、ヒトを惑わすというので、昭和になってからでもユタ狩りが行われた。ノロなどの祭祀に対するシャーマンという対比でとらえられたこともあったが、実態は二分しがたいものである。