『民俗学を学ぶ人のために』鳥越皓之

民俗学を学び始めた人向けの入門書。同じ入門書でも、先日読んだ『図説 日本民俗学』が日本の民俗についての概要を紹介していたのとは異なり、この本は民俗学の祖である柳田国男の思想や実践(調査)方法に対する解説に重きがおかれている。日本の民俗学を理解するには、柳田国男を理解する必要があるということだろう。

以下、メモ。

柳田国男は、人びとに身近で切実な問題を解くのが民俗学の目的だと考えていました。

 

民俗と民間伝承とは同義と理解され、それらは従来次のように説明されてきた。
すなわち、民俗ないし民間伝承は、(1)個性的ではなく類型的で、(2)一回的ではなく反復的、つまりくりかえされるものであり、(3)個人的ではなく集団的で、さらに文化を上層文化と、下層文化ないし基層文化とにわけるなら、(4)上層文化ではなく基層文化に属する分かだ、ということである。

 

往時においては、昔話は夜になって語るものであって、昼間に語ることは「昼むかし」と称してタブーであったといわれる。

 

明治以降近現代における民俗の動揺と廃絶の画期は、少なくとも3度をかぞえた。すなわち第1回目は日露戦争とその直後、第2回目は第2次世界大戦、第3回目は1960年代後半の高度経済成長期であった。このうちでもとくに大きな変化と廃絶は第3回目に起こったと考えられる。この時期に、日本の工業化が最大限に発展した結果、慣習と伝承の保持母体であった農林漁業が衰退したこと、若い世代の多くの者が離村したこと、交通機関やマスコミが発達したこと等がその要因としてあげられる。
交通機関とマスコミの発達は、いうまでもなく文化の伝播を促進した。その結果、上層文化はもとより、今日の基層文化も伝承ではなく伝播によりその多くを背負っていると考えられる。とはいえ、今日の都市や村落にも多かれ少なかれ慣習と伝承は存在するし、今後とても人びとの生活が続くかぎり微妙な形態で存続していくにちがいない。

 

民俗学理論を専門的に研究していた人はもちろん、民俗学に専念できる研究者も当初いなかった。多くの民俗学研究者は日曜学者であり、他に職業をもっている人が日曜や休暇を利用して調査を行ない、民俗にふれることに喜びを感じていたのである。それはたしかに趣味の域を大きく出るものではなかった。彼ら全国各地の民俗研究者は調査結果を葉書や手紙に書き、また専門雑誌に投稿する形で柳田国男に報告し、それが研究論文や講演のなかで資料として活用され、調査した本人が知らない、あるいは考えもつかない歴史的意義を与えられることに喜び、満足していた。学問としての民俗学の研究は唯一柳田国男という人物によってになわれていたといっても過言ではないだろう。

 

地域の歴史を明らかにする郷土史は、このような歴史に従属している必要はないとして、「流行の史学研究法から超脱せねばなりませぬ。気六つかしい史学者の奴と為つてはなりませぬ」と主張し、新しい視点として次の四点を提示した。

1.年代の数字に大な苦労をせぬこと
2.固有名詞の詮議に重きを置かぬこと
3.材料採択の主たる方面を違へること
4.比較研究に最も大なる力を用いること

 

1930年代に柳田は経世済民の学としての民俗学を主張した。その経世済民は政策的に解答を出すことで果たすのではなく、現実に生起するさまざまな困難な問題について、その歴史的由来、歴史的要因を明らかにすることで貢献しようとするものであった。旧来の歴史研究法は、その点で無力であり、不完全なのである。

 

今日の民俗学は、理論として、あるいは説明として継承しているだけという面は否定できない。なぜならば、実際に提出される多くの民俗学的研究は、全国規模で比較をする重出立証法を駆使していないし、周圏論的な解釈を可能にするような資料処理をしていないからである。民俗学の専門雑誌に掲載される論文は、大部分が特定地域なり特定村落における民俗事象の記述であり、そのかぎりでいえることを主張しているのが普通である。

 

「経世済民」の志は焼失し、たんなる客観的方法による資料操作のみが民俗学として成長することとなった。専ら感心は個別の研究課題に向かい、また方法は形式を整えることのみに努力を傾けた。このことは反省しなければならない。

 

ここで柳田は大きく3つのことを指摘している。一つは木綿の発達は、木綿の加工技術の発達という“技術”よりも、多様な色を使えるといういわば、“楽しみのようなもの”が原因になっているということ。二つ目が木綿の発達といういわばハードの変化が、人々の気持ちというソフトな面に変化を与えたということ。三つ目は麻から木綿という、そのような“進化”は、必ずしも長所だけではなく、他の側面で欠点を含んでいるということ。

 

ひろく世間をみて、やがて帰村し、村の前進のために活躍する者を「世間師」という。

 

1900年(明治33)、東京帝国大学法科大学を卒業して農商務省に就職した柳田は、横井時敬に代表される農本主義的小農保護論が学会官界的主流をなすなかで、農商工鼎立併進論をふまえ、日本農業を生業から職業・企業に転換せしめ、農民を農業だけで生活の成り立つ中農に育成しようとする独自の農政理論をたずさえて孤軍奮闘した。それは小農保護論の本質が、保護の美名のもとに国内における食糧自給を指向しながら、なお農民を農業だけでは生活できない状況に追い込むことによって産業資本に対して労働力を豊富かつ安価に提供させようとするところにあることを柳田が見抜いていたからであり、不在地主に代表される、いわゆる寄生地主のもとでの零細な小作人のように自立できず、“保護”されなければ存在できないような零細小農が農民の多数をしめるようでは、日本農業は「国の病」(『時代ト農政』)になってしまうという憂慮の年を抱いていたからである。

 

柳田国男は、山地住民のなかに平地の稲作農耕民とは異なる生活の体系が存在すると考えていた。こうした山地と平地の生活の体系のちがいを、柳田は山人という概念を用いることによってとらえようとした。ここでいう柳田の山人とは「我々の祖先に逐はれて山地に入込んだ前住民の末」のことである。つまり、柳田は稲作農耕民の渡来によって山に追われていった先住民の子孫を山人と想定し、その実在性の手がかりを得るために山人に関する伝承の収集に力を注いでいった。

 

石川は「山村を伝統的な経済様態によって分類するならば、地域的に大きく3つに類型化することができ」るとし、次のような山村の類型を示している(『風土と民俗』)。
(1)熊狩りを指標とする狩猟社会——東北日本型
(2)植物を主とする自然食採食と林業を指標とする採取・林業複合社会——中部日本型
(3)イモを含む雑穀栽培と猪狩りを指標とする焼畑農耕・狩猟複合社会——西南日本型

 

(山に暮らす)焼畑農耕民の間には土地の自然条件に対する正確な認知と分類が行われてきたのである。
たとえば、高知県池川町の椿山では、高度によって土地をタカテとチカヤマに大きく2つに分けている。タカテは集落から離れた高い土地をさす。一年をつうじて気温が低いため、秋にははやくから霜がおり、春おそくまで雪が残る。これに対してチカヤマは集落の近くに位置する土地をさす。このチカヤマは日照時間の長短によってさらにヒノジとカゲジにわけられている。ヒノジは東または南向きの日あたりのよい土地をいう。春になってはやくから雪が解けだし、最初に植物の芽がふきだすのはヒノジである。カゲジは日陰の土地をいい、日照時間が少ないことから、ヒノジに比べて雪解けがおそい。椿山では、こうした土地の自然認知にもとづいて、一年目にはヒノジにムギ、カゲジにソバ、タカテにヒエというように、それぞれの自然条件に適合した作物の栽培システムが形成されていた。

 

稲作に依存しない山地の生活では、焼畑耕作によってアワ・ヒエ・キビ・ソバなどの雑穀、大豆・小豆などの豆類、そのほか大根や里芋などを栽培し、食糧としてきた。こうした栽培作物とともに、山村における食糧資源として欠くことのできないものにクリ・トチ・カシ・シイ・ナラなどの木の実がある。木の実はデンプン質に富み、山地に暮らす人びとにとって、雑穀の不足を補給する食糧として、また飢饉のときの救荒食物として重要な位置をしめていた。したがって、山村における木の実の採取は、食糧を確保するための大切な仕事であり、ムラによってそれぞれの採取の慣行が行われていた。
木の実のなかでも、とくに重要な食糧とされていたのはトチの実である。トチの実は、クリやカシなどの実に比べて虫がつきにくいうえに、五、六年くらいは保存することができた。またトチの実は丈夫な皮に覆われており、しかもそのままではアクが強く苦いため、地上に落ちても動物に食べられることが少なかった。

 

マタギは冬季を中心に狩猟者集団を組織して、熊・鹿・カモシカなど大型の獣を対象とする狩猟活動に従事した。とりわけ、熊の胆(胆嚢)は薬用として重宝され、収入源として大きな位置をしめていた。一方、春から秋にかけては、それぞれの季節に応じて農耕や川漁をはじめ、木の実や山菜の採集などが行われていた。つまり、マタギのムラは、冬期の大型獣の狩猟を生業の中心としながら、いくつかの生産活動を複合的にいとなんできた一つの山村にすぎなかったのである。

 

漁民の間では、死忌(黒不浄)や血忌(赤不浄)にかかわる俗信が多いが、こうしたなかで黒不浄については好まれる傾向があるようである。たとえば死者の棺にまいてあるサラシの布を漁具にとりつけると漁があるとか、死者の身につけていたものを船にもちこむと大漁になるという伝承がある。また船の守護神であり、大漁をもたらしてくれると信じられている船霊の神体に用いるサイコロは、人が首を吊った木をみつけて、これでつくるとよいなどという伝承もみられる。さらに多くの地方で聞くことのできるものに漂流死体(ナガレボトケ)を拾うと大漁になるとする伝承があり、これをエビスと呼ぶところもある。

 

糸満漁民の妻たちのワタクサー(私財)は有名であり。たとえ夫が漁業に失敗をしても、遊んでいる夫を食べさせるくらいの経済力をもたなければ糸満漁民の妻はつとまらないといわれている。

 

(日本人の)米に対する特別な思い入れは、熱帯性植物である稲の栽培の限界を、長い努力の末に北緯50度付近までおしあげた人びとの執念にもみることができる。民俗学者であり地理学者でもある千葉徳爾は、近世だけでも数多くの凶作によって数百万の農民の死亡や離散のあった東北地方において、なお稲作を止めて他の穀物をつくろうという行動が起きなかったのは合理的・客観的には不可解なことであって、それがつまり「風土」なのだという。

 

『御伽草子』のこの2つの話から都人と里人のイメージを読みとれば次のようになろうか。都は美しく不思議でめずらしいものがあり、そこに行けば一寸法師や物くさ太郎のような、村で疎ましがられるような人物であっても立身出世が可能であるような動的なところである。それに対して里は、垢じみてきたなくてといったイメージとともに、ことの起こらない静的な場としてとらえられているようである。

 

一般に墓地は農村であれば山麓や丘にあることが多く、漁村の場合は浜辺や岬につくられている。そうして村境の峠や丘、浜辺近くの場所で祭祀が行われたりする。