最近では、企業をブラック企業とホワイト企業の2つに分ける風潮が定着しているが、僕が大学を卒業して最初に就職した会社は間違いなく“ブラック”だった。今回はその頃のことを書く。
大学を1年留年した僕は、ろくに就職活動もせず、卒業後の進路も全く未定なまま年明けを迎えた。学生時代に周囲の優秀な人間を見ていたので、ビジネス社会で自分が活躍するのは難しいだろうなと感じていた。なんとなく、なにかをつくる仕事に就ければいいなーという意識しかない、超絶甘ちゃんな若造だった。学生なんだからそんなもんだ。
文学部に所属していたこともあり、広告の制作業なんかいいんじゃないかなと思った。本や雑誌が好きだったから出版業界にも興味はあったが、「出版業界はこれからヤバい」と当時から言われていたので、じゃあやめておこうと単純に考えていた。
卒業も間近になり、最後のテストも終わった2月。当時住んでいた鷺宮の図書館に行き、朝日新聞で「雑誌のタイアップ広告を制作する会社」の求人を見つけた。タイアップ広告とは記事広告のことで、広告を記事風に制作して雑誌に掲載するもの。これは面白かもと思い、履歴書を送り、そして面接に呼ばれた。
会社があったのは西麻布1丁目で六本木ヒルズの交差点のはす向かい。有名建築家が建てたお洒落なビルの6階にあった。そんなに広いフロアではなく、社長席と4人分の机が固まった島が2つだけある、こじんまりした会社だった。面接時には、社員のほとんどが外出しているようで、ひとりだけがMacに向かってせっせと仕事をしていた。
面接相手の社長は還暦くらいの人で、金のロレックスをしてバブル臭が漂っていた。適当な会話したら「じゃあ、来週から来て」ということになった。随分簡単に採用するんだなと思った。
そして初出社の日を迎える。定時の9時半に出社すると、社長はおらず、面接時にいた社員さん(先輩)がすでに仕事を始めていた。その先輩に「その席使って」などと教えてもらっているうちに、社長から電話があり、「頑張って」と励ましを受ける。
「社長はあまり会社に来ないんですか?」と先輩に質問すると、「午前中は株やってるから来ないよ」とのこと……。「他の社員さんはどうしてるんですか?」と聞くと、「え? 僕しかいないよ」と言われた。8人分の席があって、社員がひとりしかいないって……この会社大丈夫か?と途端に不安になった。先輩は「この会社ヤバいよ」と親切に色々教えてくれた。厚生年金や社会保険などの保障はまったくなく、社員と言いつつ待遇はアルバイト同然なことなど、仏のように穏やかな性格の先輩は、淡々と会社のブラックぶりを語った。
お昼になって社長が出社し、2人で話すことに。話の要点は簡単で、「自分で出版社に売り込みに行って、3ヵ月以内に仕事をとってこないとクビだから」ということだった。すごい話だ。しかも、タイアップ広告がメイン業務の会社と謳いながら、タイアップ広告の仕事なんて全然していないばかりか、どうやら仕事そのものがほとんどない会社のようだった。
ズブの素人にそんな急に仕事取れんのか? と思ったが、とりあえず2つの雑誌の編集部に電話をかけて会ってもらうことにした。ひとつはアウトドアの雑誌、もうひとつは東京の歴史などを紹介するマニアックな雑誌。そのマニアックな雑誌の編集者には会うだけ会ってもらえたが、「実はうちは外部の人は使ってないんです」とあっけなく撃沈。もうひとつのアウトドア雑誌は、僕が学生時代に登山をやっていたこともあって好感触だった。素人がただ会いに行ってもしょうがないだろうということで、ちょっとした企画を持っていったのだが、会ってくれた副編集長がそのとき考えていた企画と似ていたようで、「じゃあ、この企画担当してみなよ」というような感じでライター&編集として使ってもらえることになった。幸か不幸か、そうして僕のクビの皮はつながり、そのブラック会社に正式採用(といっても待遇は最悪)となった。
しばらくは、そのアウトドア雑誌の仕事と、会社で請け負っていたクラシックカーのオーナーを取材する仕事などをしていた。クラシックカーの仕事は、掲載する媒体が実話誌という大人な雑誌だったので、取材相手を探すのが大変だった。クラシックカーを所持している人を探すのがひと苦労なのに加え、やっと探し当てても、媒体が媒体なだけに取材を拒否されることも多々あった。取材を受けてくれるのは、とても器の広い人かヤクザチックな人ばかりだった。ヤクザチックな人には、古いベンツとかに乗っている人が結構いるのだ。ヤクザに取材した際に、「掲載号ができたら郵送しますね」と言ったのに、見事に掲載誌を送り忘れてしまい、しかも確保すらしていなかったために、電話で「てめーふざけてんのか!」と超怒鳴られたこともあった。仕事の約束はちゃんと守らないといけない、と身に染みた。
そんなことをしているうちに、社長の昔の知り合いのツテで、大手出版社のメジャー情報誌の副編集長と会ってもらえることになった。社長は「お前ら頑張って会ってこい。チャンスだぞ」とか言っていたが、僕と先輩は、僕らみたいな底辺のやつらがメジャー誌から仕事もらえるわけないよね、とか言って笑っていた。
ところが。持参した企画が気に入ってもらえたのか、その副編集長からバンバン仕事が来るようになる。初めて会ったときに、2人しかいない会社って零細すぎて信用してもらえないだろうということで、「うちの会社には制作スタッフが7人います」とウソをついていたから、スタッフ2人の会社にはかなりキツい量の仕事が降ってきた。間もなく、その副編集長が編集長に昇進し、僕らは編集長直属の部隊(といっても2人)となって、他のライターさん達とは違う特別(強行)スケジュールで制作進行することになる。隔週発売の雑誌だったのだが、できるだけ最新の情報を掲載するために、月曜に企画出し&決定、火曜に取材のアポ取り、水〜金曜で取材、土日に原稿を進め、月曜に入稿、火曜校了みたいな流れだった。それで水曜から金曜は翌号の企画を考える。それをエンドレスで繰り返す。
ときには、明日校了というタイミングで「もう1ページつくって!」という鬼の指令が下されることもあった。紙の折りの都合上、雑誌に限らず冊子ものは4ページ単位でしかページ数を増減できないのだが、雑誌では校了直前になって1ページだけ“落ちる”ことがある。不祥事を起こした企業が広告を取りやめた場合などだ。そうした場合、僕たちがその1ページを穴埋めすることになった。だいたいの場合、新商品の紹介ページをつくることが多かった。
とはいえ、取材しなければページはつくれない。急いで取材依頼の電話をする。代表番号にかけ、広報に回してもらい、新商品の担当者につないでもらう。取材自体は宣伝になるから歓迎してもらえる。
「取材にうかがいたいのですが」
「ぜひぜひ。取材日はいつが良いですか?」
「今日お願いしたいのですが」
「……こちらにも予定というものがありますので」
「そうですよね……。でも今日取材しませんと校了に間に合いませんもんで……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……わかりました。予定を組み直して、こちらからすぐに折り返し電話します」
こういうやりとりを何度したかわからない。ご迷惑をおかけした。
メジャー誌で仕事をしていることが信用となり、他の媒体の仕事も増えていった。当時、新創刊されて勢いのあったフリーペーパーでタイアップ記事の制作も手がけるようになった。しかし、社長が超絶ケチ&偏屈だったので、なかなかスタッフは増えず、レイアウト(デザイン)もデザイナーに発注せずに自分たちでやることも多かったので、日に日に苦しくなっていった。
当時の1日のスケジュールとしては、9時半までには絶対出社(社長が時間にうるさかった)、それから原稿を書いたり、取材に行ったり、デザイナーやイラストレーターとのやりとりで気付くと終電になり、自宅で残りの原稿を書いたら、その後にレイアウト作業を午前3〜4時までという感じ。それでもこなせないときは、徹夜となる。ちなみに当時は雑誌のレイアウト(デザイン)は、インデザインではなくて、クオークを使っていた。クオークなら今でも使える自信があるが、いかんせん需要がない(笑)。
給料は18万だった。もちろんボーナスはない。友人と一軒家をシェアしていので家賃は5万だったが、タクシー代なんて出ないし、資料代も出ない、自炊はするわけがないという状況で、金銭的にはかなり苦しかった。家をシェアしている友人に「お金出し合ってソファ買わない?」と提案されたが、「金ない」と断ったら「お前はケチなやつだな。金がすべてなのかよ」と言われた悲しい思い出もある(笑)。ケチなのではない。ないものは出せないのだ。当時はリーマンショック前のわりと好景気なときで、大学時代の友人たちはボーナスをたっぷりもらって高級時計を買ったりしていたから、自分だけなんでこんなに貧乏なんだろうと悲しくなったりもした。その頃、「ワーキングプア」という言葉が使われ始めたが、まさに僕のことだと思った(笑)。
結局、その会社に所属していたのは2年くらいだった。その間に、7人の後輩が入社してきたが、そのうちのひとり(僕の友人)が定着しただけで、後の6人はクビになるか、体力や精神の限界を迎えて去っていった。ランチを食べに行ったまま、永久に戻らなかった男もいる。社長がクビを宣告する場面は何度も見た。「こんな会社クビになっても別に良くない?」と僕は思っていたが、クビを言い渡された本人はショックなようで、なんとも言えない表情を浮かべるのを見ているのは、さすがに辛いものがあった。
僕がその会社を辞めた原因は、やはり社長だった。仕事が増えるにつれ、社長は「取材とか原稿書いたりするのは、全部外部にやらせてギャラをピンハネすればいい」という主張を強めていった。その方が効率的に稼げるからだ。僕は別に「絶対現場主義!」みたいな想いがあったわけではないけど、ここで働いていてもつまんなくなりそうだなと思って、次の職場も決めないまま辞めた。意味わかんない社長に、さすがに愛想が尽きてもいた。
その後は、貯金がなかったので次の仕事を早く見つけないと飢えるので、急いで転職活動をしてケータイ会社をメインクライアントとする広告制作会社に移った。
長くなったのでこの辺にする。
ご覧のように、一般的な視点で言えば僕は新卒での就職に失敗した。当時は「人生誤った」「未来が見えない」とショゲたりもしたが、時は流れ、今ではそれなりに楽しくやっている。だから学生は、就活がうまくいかなくても思い詰める必要なんてないと思う。確かに今の日本においては、「新卒」というのは就職するのに有効な切札かもしれないけど、新卒での就職活動がうまくいかなくても、鬱になったり、ひきこもったり、自殺したりする必要なんて全くない。うまくいったらラッキーぐらいに思っていればいいんじゃないだろうか。