『街を変える小さな店』堀部篤史

京都の人気セレクト書店『恵文社一乗寺店』で店長を勤める堀部さんの本。お金の使い方、お店との使い方に関して共感できる部分が多かった。

以下、メモ。

◎くろうとの金、しろうとの金

店を存続させるのは、言うまでもなく客が支払う「代金」だ。花柳界の浮き沈みや風習を描いた、幸田文の『流れる』(新潮社)という小説に、お金に関する印象的な一文がある。

「しろうとの金はばかで、死にかかっている金であるし、くろうとの金は切ればさっと血の出るいきいきした金、打てばぴんと響く利口な金だとおもう。同じ金銭でも魅力の度が違う」

定まった価値を安い・高いで判断する「しろうと」の金に対して、「くろうと」の金とは自分自身がその価値を決めるもの。高かろうが見栄で買うこともあれば、人情でもうけを度外視することもままある。損得勘定に長けた「しろうと」の世界と文字通り一線を画した花街では、時に形のないものや、定められた定価以外のものに金を落とす「粋」という美学がある。

現代に置き換えてみれば、「しろうと」の金とは味やサービスを数値化した、わかりやすい価値観を追求する「コストパフォーマンス」的な金銭感覚だ。街に出ずしてあらゆるものが取り寄せられ、ペットボトルの水を買っただけでお得なポイントが与えられる。そんな、最小限の支払で最大の利益を求める買い物のあり方。点数や星の数で店を選ぶことが「賢い」とされる今、客側に「くろうと」の美意識がなければ、本屋であれ酒屋であれ、あらゆる個人店はいずれ成り立たなくなるだろう。

この原稿を書いている最中に、左京区のあるカフェで使えるコーヒーチケットの購入を友人に薦められた。地元のミュージシャンによるライブが頻繁に行なわれ、『屯風』と同じく交流の場として長く機能してきた店だ。そこの冷蔵庫が壊れたから、店主に代わってチケットをつくり、常連客や知人に購入の協力を募っているという。これもある種の「くろうとの金」なのかもしれない。誰へ届くのかわからないコーヒー代より、多少高くついても、顔の見える店の冷蔵庫修理代にあてられるお金のほうが、支払うにしてもずっと気持ちがいい。みんなで店を助けようという、ありがちな美談ではない。僕にとって、このチケットを買うことは、居心地のよい街を守るための投票に近い行為だった。

「最近はなにかのついでとかじゃなくて、喫茶店そのものを目指す人が多いよね。『食べログ』とか『ぐるなび』だっけ?そういうのが流行しているけど、そんなのとか、ブログとかツイッターだとかにレビューを書く人って、たいていは地図を埋めていくように目的の店だけを目指して、1回行ったきりで勝手な感想を発表しちゃうでしょう。自分の腹の中でなにを思おうと無害だけど、それを世間に公表して、さらにその感想を盲信して店のことをああだこうだ語る人が出てくるというのはちょっとまずいよね」