『レイヤー化する世界』佐々木利尚

以前から読みたいと思っていた本。現代の社会構造がどのようにして生まれたのかと、それが限界に達している理由を解説すると共に、これからの時代(レイヤー化した世界)を生き抜くための著者の見解を示している。

 

こういった話を読んだり聞いたりする度に思うのは、何十年も年上の先輩方のアドバイスは話半分に聞いた方が良いのではないかということ。パラダイムが変わるときには、それまでの考え方にとらわれるとうまく順応できない。以前は、一番賢い選択だったものが今は全くそうではないということがある。例えば、労働力が不足気味で労働者の立場が強いときには、会社に属した上で人生設計も丸ごと会社に委ねてしまうことが、大半の人にとっては最もラクで楽しくて賢い選択だった。でも今は違う。サラリーマンとして生きることが悪いというわけではなくて、雇用者側の立場が強いから会社に全て委ねる人生はリスキーになり、前提条件が変化している。

 

以前のパラダイムの中で上手に生きた先輩方や親は、自分が上手いことやった生き方に自信を持っているけど、そのアドバイス(忠告)を素直に聞くと僕らは上手くいきそうでも楽しそうでもない。下手に、アドバイスを素直に受け入れる優等生的な生き方をすると割りを喰ってしまうこともある。

 

以下、『レイヤー化する世界』のメモ。

産業革命で電気やエンジンが発明され、それによって巨大な企業が生まれ、経済が成長し、たくさんの人たちが企業に雇われ、そして雇われた人たちが豊かになっていったというよい循環。
こうした土台の上に、民主主義という世界システムが確立して、民主主義は20世紀の輝かしい成果となりました。
でもいま、この世界システムは衰えはじめています。

 

さらに加えて、「人口ボーナス」というオマケもありました。
人口ボーナスというのは、子どもとお年寄りが少なく、働ける大人の人口が非常に多い状態のこと。働く人口が多ければ、それだけ工場の生産を増強することができます。
人口ボーナスは、成長していく国にかならず一度だけ訪れると言われています。(中略)日本で言えば、1960年代から1980年代ぐらいまでがそうでした。

 

21世紀のいまは、イスラム教徒に対して悪い印象が広がっています。キリスト教徒が心が広くて穏やかなのに対して、イスラム教徒が偏狭で過激だというようなイメージを抱いている人もいるでしょう。でもそれは、キリスト教を信仰する人の多い欧米が世界の中心になった結果に過ぎません。中世にイスラムが世界の中心だったころは、イスラム教徒のほうが心が広くて穏やかで、キリスト教は偏狭で過激だったのです。

 

古代の終わりから中世にかけてはいろいろな帝国が栄え、滅び、滅亡を繰り返しました。しかし世界のシステムは一貫しています。
たいへん大ざっぱに言ってしまえば、当時の世界システムには2つの要素がありました。

第一には、帝国は多民族国家だったということ。
第二には、帝国と帝国を結ぶゆるやかな世界の交易ネットワークがあったということ。

ひとつずつ説明しましょう。まずは帝国は多民族国家だったということ。
いまのように「ひとつの民族がひとつの国」ではなく、複数の民族が集まってひとつの帝国のもとで暮らしていたのです。これは21世紀の国家のありかたとは、まったく違っています。

 

ヨーロッパが世界を席巻したから中世帝国が衰えたのではなく、ヨーロッパが活躍するようになる以前に中世帝国は衰えていたということです。

14世紀のペストの流行が原因だったという説もあります。黒死病などという不吉な呼び名もあるペストは、いったん発病したら大半の人が死んでしまう恐ろしい伝染病でした。
これは中世の地球では、まるで小惑星爆発による恐竜の絶滅のようなものでした。中国から北方草原、地中海、中東、ヨーロッパまで、いたるところで人が死んでいきました。人口の3分の1から4分の1、場所によっては半数以上の人たちが死に絶えたと考えられています。
騎馬民族がいたはずのユーラシア大陸北方草原は、無人の大地となってしまったと言います。それまではつねに中国やトルコ、東欧を侵略してきた騎馬民族が姿を見せなくなりました。だいぶ時間が経ってから人びとが農地開拓のために北の草原へと進出してみると、そこには誰もおらず、大海原のような草原が広がっているだけだったと言います。

 

ローマ帝国が滅亡した後、ヨーロッパは小国家が乱立したままになり、現実的なよりどころは消滅してしまいました。地中海東岸や中東、インド、中国ではその後も帝国がたくさん興りましたが、ヨーロッパはとても貧しく、痩せた土地でしかなく、産物もろくなものがなかったため、どの帝国もヨーロッパには侵略してこなかったのです。ヨーロッパはどうしようもない「忘れられた土地」でした。

 

16世紀に入ると、オーストリアとスペインを手中におさめていたハプスブルク家のカール5世が、新大陸のふんだんな富をもとに帝国を復興させようと考えました。
しかし、他のヨーロッパの国ぐにはスペインの強大化を恐れ、フランスやイギリス、ドイツの諸侯は強く反発しました。そして各国を巻き込んだ戦争が始まります。
この戦争は半世紀ものあいだ続き、何ら得るもののないまま終わりました。

 

そしてこの結果、帝国が不要であることをヨーロッパの王族たちは実感したのです。強大な帝国が出てくるよりは、小国が乱立したままの状態にして、バランスを保ったほうがいい。それぞれが同盟関係をつくり、互いに外交官を常駐させ、国家間の利害を調整しよう。そういう動きがだんだんと現れてきます。
(中略)
つまり、帝国がなくとも、小国家が乱立して権威が消滅したままでも、それでよしとしようじゃないか——そういう合意ができあがっていったということです。
そしてこれがいまの「国際社会」の原型となりました。このヨーロッパをモデルとした国際社会のありかたが、20世紀に入ると世界全体にいきわたり、ひとつの民族がひとつの国家をつくり、それらの国家が集まって国際社会を形成するといういまのようなシステムへと成長していったのです。

 

中世までのヨーロッパの戦争は、「ほどほどに、決着をつけずに戦う」というのがおおかたのルールでした。殺し合いは少なく、お互いの被害は最小限に、話し合いの余地は残しておこうという戦いかただったのです。
しかしフランス革命の熱狂のなかで集められた国民兵たちは、そのルールを無視しました。「われわれは、最後の最後まで、皆殺しをしなければならない」と革命軍リーダーは語ったそうです。
国が総動員され、国民すべてが兵士になり、敵を殲滅するという近代の戦争は、ここから始まったのです。
王が傭兵を使い、ほどほどに敵国と戦っていたころは、領民たちは「また国王様が戦争なさってる」ぐらいにしかみていませんでした。自分たちが戦争の当事者であるとは思ってもいなかったのです。しかしヨーロッパが近代に足を踏み入れ、国民皆兵になると、戦争は国民全員が当事者となって参加するものに変化しました。
フランス革命の国民軍を受け継いだのが、英雄ナポレオン・ボナパルトです。

 

帝国の時代には、さまざまな民族やさまざまな領主の上位に、巨大な帝国の権威がありました。しかしそういう上位の権威が消滅してしまうと、国と国の関係は自由奔放になってしまいます。戦争するのも自由、和平するのも自由。ヨーロッパの国民国家から始まった国際社会は、最初から無秩序な戦争状態を約束されていたということなのです。

 

アフリカでは植民地と植民地の国境が、ヨーロッパの国の勝手な都合で決められていたため、人種も言語も宗教も何ひとつ共通項がないのに、ひとつの植民地にされていた土地が少なくありませんでした。そういう国が独立してひとつの国民国家となった時、「いったいなぜわれわれはひとつの国の同じ国民なのか?」という疑問が起きています。それが内戦や戦争を引き起こし、20世紀のアフリカを混乱させる大きな要因になりました。

 

それでも格差が開き、生活が苦しくなり、社会が混乱していくと、人びとは最後のよりどころを政府に求めます。でもそう言われても解決策がないから、政府は空手形を連発するようなことをします。何もしなければ支持率は下がってしまいます。期待できそうもない政策でも、とりあえずやってみるしかありません。「景気がよくなりますよ」と言ってみるしかありません。
そんなことを続けていると、政治家が口に出す政策はだんだん過激になっていってしまうでしょう。平凡で地道な政策よりは、人の目を惹く派手な政策。

 

〈場〉の時代を生き延びていく戦略とは
ではどのような戦略が成り立つのでしょうか?
レイヤー化した〈場〉の世界でよく生きていく戦略は、ふたつです。

第一に、レイヤーを重ねたプリズムの光の帯として自分をとらえること。
第二に、〈場〉と共犯しながら生きていくということ。

私たちは光の帯となり、さまざまなレイヤーの積み重なったなかで生きています。それぞれのレイヤーで、他の人たちや他の会社、他の部分としなやかにつながっていくという戦略。
レイヤーで横に広がる私たちは、どこからどこまでが自分で、どこから先が他者なのかははっきりしていません。でもその境界線のあいまいさを気にする必要はない。逆に境界線がはっきりしないからこそ、自分と他者がしなやかにつながることができるのです。
そういうあいまいさを受け入れ、レイヤーごとに他者とつながり、そのさまざまなつながりの総体として自分をつくりあげていくという考えかた。これが第一の戦略です。

第二の戦略は、〈場〉という権力との共犯。
〈場〉はテクノロジーそのものです。それは同時にフェイスブックであり、グーグルであり、ラインであり、スカイプであり、アップルである。そういうテクノロジーを使いこなし、〈場〉を利用し、〈場〉に利用されるということ。つねに〈場〉は人々を管理し、支配し、そしてさまざまなデータを吸いあげて人びとの行動を奪い取ります。しかしそういう収奪も織り込み済みとらえて、承知のうえで〈場〉のテクノロジーを利用していくということ。これが第二の戦略です。

 

だからレイヤー化した〈場〉は、マイノリティにとっては生きやすい世界になるかもしれないのです。
一方、これまで自分が社会のマジョリティだと信じて疑わず、安心しきっていた人は、その平凡さゆえに、特異なレイヤーで他者とつながることが逆に難しくなるでしょう、

レイヤー化する世界―テクノロジーとの共犯関係が始まる (NHK出版新書 410)