『ファッションフード、あります。はやりの食べ物クロニクル1970-2010』畑中三応子

日本の食におけるブームの歴史を追った本。

 

1981年生まれの僕が覚えているブームは、『ファイブミニ』くらいから。

 

以下、メモ。

【ファッションフード前史 1772 – 1969】

文明開化の食のキーワードは、美味より「滋養」だった。体を養うことが少ない日本料理の旧弊を正して西洋に追いつき、ひいては国力を増進することが最重要課題だった。初期に開業した西洋料理店は「精養軒」に代表されるように「養」がつく店名や、「自由亭」「開化亭」「開洋亭」「日新亭」「開成軒」といった開明的な店名が多く、新時代の気分が伝わってくる。

 

日露戦争の陸軍傷病者35万人のうち脚気患者が少なくとも25万人、戦病死者3万7200余人中脚気によるもの約2万7800人というから、国家の存亡にかかわる深刻な疾病である。ところが原因をたんぱく質の不足と想定して洋食とパンを導入した海軍では、患者数が激減したという。まさに滋養食の勝利である。

 

伝統的な饅頭に文明開化の香りをドッキングさせたあんぱんは、主食としての塩見パンには強い抵抗感を持っていた庶民の心をつかみ、日清戦争の好況期だった明治30年前後には全国的にブレークした。元祖の銀座・木村屋では一日に10万個以上が売れ、長蛇の列ができて30分以上待たされることも珍しくなかったという。

 

江戸時代に「薬喰い」と呼んで一部でひそかに嗜まれていた牛肉とは違って、牛乳を飲む習慣は平安時代より長く途絶えていたが、市内部に牧場ができて新鮮な牛乳が家庭に配達されるようになり、急速に庶民に浸透して大正モダン文化のミルクホール流行へとつながっていく。
本邦初の炭酸飲料として幕末の長崎で製造された「ラムネ」、「レモン水」や「蜜柑水」などの清涼飲料水が早くも明治前半にブームになり、夏場の飲料として人気があった旧来の麦湯店が大打撃を受けたという。

 

大正時代には、電気、ガス、水道のインフラが整備されるに従い、台所改善運動が起こった。土間や板の間でうずくまった姿勢で行う旧来の座式調理は主婦の負担が大きく、不衛生で非能率的なので、西洋のような立働式にすべきというのがもっとも重要な改善方針だった。高さのあるガス台と流し、調理台を組み合わせたキッチンが開発され、「文化流し」と呼ばれて都市部に普及したが、第二次世界大戦によって設備はふりだしに戻ってしまった。

 

多くの児童が給食のおかげで栄養失調から救われたのはありがたいが、実はパン食はアメリカの余剰小麦を引き受けさせようという長期的な意図をかなり明確にもち、推進された占領政策だったという。

 

学校給食でパンに合う副食として絶大な人気を誇った「魚肉ソーセージ」は、いうまでもなくホットドッグに挟まっている畜肉ソーセージのコピー食品である。
1954年、日本のマグロ漁船第五福竜丸が放射能汚染に遭ったビキニ環礁水爆実験の影響でマグロの市場価格が大暴落し、消費者の魚離れを引き起こした。このときの余剰マグロが魚肉ソーセージの材料にまわされて生産コストが下がり、味も向上。安くておいしい栄養食として学校給食での地位を不動のものにした。現在の食肉加工会社には、これで大儲けをした水産会社がその後、肉を扱うようになったところが少なくないという。

 

魚とはわかっていても、色といい味といい畜肉の気分を味わえる魚肉ソーセージは、実は伝統的な蒲鉾製造技術の応用で作られた。この技術は後年、再び「カニカマ」という画期的なコピー食品を生み出すことになる。

 

【加速するファッションフード 1970年代】

70年代の本格的ファッションフード成立の先頭に立ったのは、日本の若い女性たちだった。チーズケーキ、クレープ、ピザ……といった初期のファッションフードは、それまでの主婦雑誌とはまったく違う文学的なタイトルやコピー、美術性の高い写真とともに、『アンアン(an・an)』、『ノンノ(non-no)』といった新創刊女性詩から出現したのである。これらアンノンのファッションフードは物語を付与され、味覚だけでなく情報を消費されることからはじまった。
アンノンが何より画期的だったのは、食と家事を切り離したことにある。家事としての調理情報はほぼ無視し、遊びの要素を強調した誌面作りは、家庭内性別役割分業からの遁走を、女たちに促したといえないだろうか。

 

和風ゆで上げスパゲッティが少しずつはやりはじめたのも、ハンバーガーと同じ70年代前半から。なぜ「ゆで上げ」がことさら謳われたかというと、60年代までのスパゲッティは「ゆでおき」が普通だったから。当然のびているが、当時の主流だったケチャップ味のナポリタンとミートソースには柔らかい麺がよくマッチしたのである。
ところが女性誌は、スパゲッティの醍醐味はゆでたてのシコシコした歯応えにあると、少し芯を残してゆで上げる「アルデンテ」を盛んに啓蒙し、スパゲッティに対する認識を変えた。

 

遊興の小道具として愛飲されたコーヒーに対し、中・上流家庭の飲み物といえば紅茶で、とりわけ「リプトン」の茶葉が崇拝の対象になっていた。

 

サッポロラーメンといえば味噌だが、その歴史は意外に新しい。札幌で味噌ラーメンの元祖といわれる「味の三平」(1948年創業)は、北海道らしさを出すため最初は玉ねぎとバターを使った醤油味ラーメンを作っていた。しかし常連のアメリカ人から、固形コンソメ「マギー」の社長がアメリカ版『リーダーズダイジェスト』で「日本の味噌はカロリーのある調味料として世界一。日本で私のコンソメが売れているのは、日本人が味噌を忘れているからだ」と語っていると知らされた主人が発奮し、入れてみたのが最初。1958年に正式メニューになった。

 

【拡大するファッションフード 1980年代】

この頃、かいわれ大根も大ブームになった。アメリカでヘルシーフードとして流行していたアルファルファなどのスプラウト(新芽野菜)をヒントに、広島県の「村上農園」が水耕栽培による大量生産に成功。それまでは特殊な方法で栽培され、木箱に詰めて出荷される料亭向けの高級野菜だったものが一般に普及し、驚異のビタミン野菜として一気に人気が出た。その結果、生産農家が急増して市場価格が暴落し、「かいわれ戦争」と呼ばれる熾烈な競争がしばらく続いた。

 

外食でエスニック料理が注目を集めていた頃、食品メーカーは激辛食品の開発競争に血道を上げていた。火付け役は、1984年に発売された湖池屋のポテトチップス「カラムーチョ」、サンヨー食品のインスタントラーメン「オロチョン」、木村屋總本店の「辛口カレーパン」とされる。

 

70年代のサッポロラーメンと90年代のご当地ラーメン、ふたつのブームに挟まれてこれといった変動が起こらなかった80年代のラーメン界で特筆すべきは、「京風ラーメン」というスタイルが登場したことである。
京風ラーメンとは、京都発祥のご当地ラーメンではない。京懐石のはんなりとしたイメージで演出し、女性に大受けした非主流派ラーメンの最大ヒット作である。麺、スープ、タレ、ローカル性の差異に着目する主流派とは違って、雰囲気が最優先されたのが特徴だった。

 

【自己増殖するファッションフード 1990年代】

大手商社が一斉に現地へ買い付けに走った結果、フィリピンではナタデココ特需が起こり、生産者がこぞって設備投資をして生産量増大を計った。ところが態勢が整った頃、すでに人気は下落。フィリピン側には莫大な負債と無用になった工場、熱帯林の伐採と酢酸の廃棄によって起こされた環境破壊が残ったという。

 

【拡散するファッションフード 2000年代】

実は、いまだに日本人に不足している栄養素はカルシウムである。90年代の『粗食のすすめ』もそうだったように、その原因のひとつは5年に一度くらいの割合で「牛乳害悪論」を説く健康本が人気を博し、牛乳消費量の伸びを抑えることにあるらしい。正しい科学的根拠からいうと牛乳は間違いなく体にいい食品なのに、なぜ敵視する人が頻出するのだろう。 

昔、酒は酒屋さんで買うものだった。しかし、2001年からの酒販免許の段階的な規制緩和によって酒屋の転廃業や倒産、休業が続き、コンビニとスーパーが酒小売業の主役に変わった。得意客を奪われた酒類販売業者の自殺が2年間で実に50人、失踪・行方不明者は2441人というから悲劇である。